広報かこがわ 平成25年1月号 から ぶらり 加古川史跡放浪記  神吉八幡神社の石灯籠

市のホームページにはテキストベースでも掲載されていましたので、転記しておきます。

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ぶらり・・・加古川史跡放浪記
 
神吉八幡神社の石灯籠(西神吉町)
 
 来年のNHK大河ドラマは「軍師官兵衛(かんべえ)」に決定しました。官兵衛とは黒田孝高(よしたか)のことで、羽柴(豊臣)秀吉の作戦参謀をつとめて多くの合戦で秀吉に勝利をもたらした武将です。
彼は姫路を活動拠点にしていたので、その部下には播磨地域の出身者が少なくありません。また、官兵衛の妻は志方城主櫛橋(くしはし)氏の娘でしたので、番組では市内を舞台にした場面も取り上
げられることでしょう。いまから放映が待たれるところです。
 その官兵衛の壮年期には、市内に加古川・野口・神吉・志方などの城がありました。当時、神吉の城主は神吉頼定(かんきよりさだ)で、彼は天正三(一五七五)年に神吉八幡神社(当時は妙見宮)に
石灯籠を寄進しています。石灯籠は上から順に宝珠(ほうじゅ)・笠(かさ)・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・竿(さお)・基礎の部分から構成されます。同神社の石灯籠の竿には、前述のような建立の
経緯を示す事項が一行ずつ三面に彫られています。
 現在、神社本殿に向かって右側の奥に建っている四角柱形の石灯籠は、天正三年当時のものではないとされています。「加古川市史」の記述によると、各部分の形式からみて江戸時代後期の作と考
証しています。もとの灯籠が損耗したので建て替えたときに、旧来のものに彫られていた文字を再び刻んだというものです。そうであるとしても、すでに百五十年以上の月日が経過し風化が少し進んでいます。
 天正六(一五七八)年、織田信長軍による播磨攻めによって、三木城の別所氏に味方した野口・神吉・志方の各城は陥落してしまいました。神吉城は圧倒的な戦力差にもかかわらず大いに抵抗しまし
たが、信長の一代記である「信長公記(しんちょうこうき)」によると、同年七月十六日に神吉頼定が戦死し落城しました。そのとき彼は二十歳代後半の青年であったようです。高台にある神社の境内は南に
開けているので、灯籠はそこから寄進者である神吉城主の最期をみつめていたとも言え、歴史の悲哀を感じます。
 神社の後背地の宮山には古墳が三基あり、遊歩道がめぐっています。桜や紅葉が楽しめ、山頂からの見晴らしもよいので、わがまち加古川六十選の一つに選ばれています。また、神社には市指定文化財
の「祭礼絵巻」が伝わっており、江戸時代後期の華やかな秋祭りのようすを知ることができます。周辺には中世の石仏もあり、この付近は古き時代を感じる散策にはぴったりかもしれません。

(写真掲載キャプション)

▲「奉寄進神吉源頼定」の銘

JR宝殿駅北口から神姫バス「細工所北口」行などで約8分「東播工業高校前」下車徒歩約15分
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といわゆる市の広報誌に載っていました。
ですが、致命的な欠落があります。
この文章には、「神吉城主 神吉頼定」と 「黒田官兵衛」の関係について、直接なにも書かれていません。
ところが、神吉頼定と黒田官兵衛の関係については、黒田官兵衛の娘が神吉頼定の妻であるという記載を
見たことがあり、なんでと思いました。ということで、その記載について探してみました。
まあ、異説があるので書かなかったのかもしれませんが、そこは書いてほしかった。


「ひろかずのブログ」から「東神吉町探訪:神吉城の攻防E・頼定の妻は黒田官兵衛の娘」

異説も多くとあり、異説については
小説からの紹介になりますが、

 「 王佐の才」 作者:堀井 俊貴 から 「第94話 三木城合戦(1)」
に書かれています。

まあ、そういうことで、黒田官兵衛がらみで、神吉について市の広報に書くなら妻ってことも
紹介してほしかったですね。
まあ、テレビドラマでどのように紹介されるのかも不明ですし、もう何年も日曜日の大河ドラマ
なんて見たことないのですが・・・。

まあ、年に2日だけですが、神吉家の家紋が入ったはっぴを着る人間の独り言でした。






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